ピアノ 日記・コラム・つぶやき

岡崎の駅ピアノには、ぼくの求めるものはなかった

先日ネットニュースで『マナー違反続出で「駅のピアノ」が撤去。海外とは明らかに違う、日本のストリートピアノの“つまらなさ”』という記事をみた。これを見たとき「やっぱりなあ」とぼくは思ったのだ。

ここ以外でも日本の各地で駅ピアノの撤去が相次いでいるという。とても残念なことだよね。でも実はぼくもそういう体験をしているので、どこも同じなんだなと……。

ぼくがピアノを始めたのは、駅ピアノを観たからだった

ぼくがピアノを始めたことを2021年の11月の「ピアノの練習を始めた♪」で書いた。この番組が大好きで、その日も「エストニア・タリン Vol.3」の再放送を観ていた。

するとある人が「フォレスト・ガンプ」を弾き始めた。ぼくの大好きな映画(アマゾンプライム)そして名曲だった。感動で涙が止まらなかった。

それがきっかけでピアノを始め、いつか駅ピアノでこれを弾きたいと思って、1年ちょっとかかってようやく弾けるようになったんだね。

そして去年の年末にはJR岡崎駅にも念願のストリートピアノが設置されたので、とても喜んでいた(JR岡崎駅にストリートピアノが設置された)。ついに地元岡崎駅でぼくの夢が実現できるのだと……。

ところがある日、その夢が崩れる体験をしてしまったのだ

3月、いつものようにかみさんと散歩をして、この日はJR岡崎駅の自由広場のマルシェに立ち寄った。そして今日こそはストリートピアノのデビュー日にしようと思った。

ピアノは細長い自由広場の一番奥にあるが、すでにピアノの音が構内に鳴り響いている。こんなにデカい音なのか? 近くまで行くと、若者が今風の曲を上手に弾いていた。

ぼくたちはピアノから少し離れた場所で順番待ちをした。演奏し終わったので、いよいよだなと思ったが、その若者はまた演奏を始めた。自分の演奏に陶酔しているようだ。

ルールでは「1曲にとどめるなどゆずり合ってご利用ください」とある。ぼく以外にももう一人待っているようすだが、それには目もくれず、延々と弾き続けていた。

すでに20分ほどたっているがまだ弾き続けている。こりゃダメだな。ぼくは弾くのをやめてこの場を立ち去った。諦めたわけではない。ここで弾くことをやめたのだ。

その理由は言葉では表わせなかった。ただ「ここはぼくの弾く場所ではない」と思ったのだ。そしてこの若者の演奏を聴いている人は誰もいないし、拍手もない。何か変だ。

海外と日本では明らかに違う「空気感」

そしてこのネットニュースをみて、「やっぱりなあ」と思ったのだ。

海外と日本とでは明らかに違う「空気感」
もともとストリートピアノは2008年にイギリスの“Play me, I’m Yours”という活動から始まりました。見知らぬ人同士が知り合うきっかけとして音楽とピアノを活用したのです。こうしたパブリックスペースのゆるやかな雰囲気が共感を呼び、日本でも街中にピアノを設置する動きが見られるようになりました。

しかし、YouTubeなどの動画でピアノの腕自慢が出現しだしたことで状況は一変。時間をかけて撮影機材の設置をしては一人でピアノを独占し続ける状況が当たり前になり、各地で問題になっているとの目撃談もあります。

バズり目的の利用者が増えたことでパブリックスペースとしての価値を失い、近年では無料のアトラクション程度の意味合いしかなくなってしまいました。今回の加古川は象徴的なケースなのだと思います。

以前から筆者は日本のストリートピアノ文化に違和感を感じていました。NHK-BSの『駅ピアノ』、『空港ピアノ』、『街角ピアノ』をコンプリートするマニアとして言うならば、海外と日本とでは明らかに空気感が違う。もっと言えば日本のシリーズはつまらないのです。

一体何が原因なのでしょうか? (続く)

出典: news.yahoo.co.jp

この解説者が言う通り、ぼくが夢見たあのNHK-BS『駅ピアノ』の空気感とは全く違う世界だった。こんな所で弾くために練習してきたんじゃないなと思ったのだ。

あなたの近くにもストリートピアノはあるだろうか? その風景は外国のこういうのとはあきらかに違うとは思わないだろうか?

さらにこの記事にはこんなことも書かれていた。ぼくもこのシーンをはっきり覚えている。

 一方、海外のストリートピアノには意外性があります。ロンドンのパンクラス駅の回では、ベートーヴェンの「歓喜の歌」をダウン症の女の子とカジュアルなアレンジで連弾する男性が印象に残りました。

女の子は好きなように鍵盤を叩くだけなのですが、男性はそれを受け入れて“いいよ、いいよ。その調子”と応援して弾き続ける。演奏が終わると、駅中に響き渡るほどの大きな音でハイタッチ。ストリートピアノの原点である公共空間の精神が最もよく現れているシーンでした。

出典: news.yahoo.co.jp

これが本来のストリートピアノだろうって思うんだね。ところがJR岡崎駅の駅ピアノにはこの風景が全くなかったのだ。

駅ピアノを設置しました。後は勝手にどうぞ?

今日はぼくの中にあった駅ピアノのモヤモヤが、実際にこういうことが起きていることの解説を読んで納得できた。

でもね。逆に言うとただ苦情が出たから撤去するというのでは、あまりにも短絡的すぎるのではないかと思う。せっかく育ち始めた新しい文化を消してしまうんだからね。

JR岡崎駅もそうだけど、本来駅ピアノは隅っこではなく、もっと人が行き交う場所に置くのがいいと思う。あえてそこをみんなのコミュニケーションの場にするのだ。

知らない誰かだけど、その演奏を聴いて自然に拍手が湧くような、そんな場所にすべきじゃないだろうか。でも日本人は未熟だからそれができない。

だったら、時間を決めてでもいいから、そこにリーダー的な人をおいて、その場が楽しくコミュニケーションできる場所になるように育てていく。そういうことじゃないかなあ。

今のままでは、ただピアノを置いて後は勝手にどうぞ、というだけのもの。やっぱお役所仕事だなって。これではコミュニケーションはうまれないと思うんだよね。

今回のニュースがきっかけになって、どこかでそのお手本になる行動をするストリートピアノが現れることを願うばかりだ。

というわけで、さっそく今日からリチャード・クレイダーマンの「渚のアデリーヌ」を練習し始めたのである。やっぱりピアノは楽しい。

 

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